楽しい終末:地球が壊れていく未来。それを待つだけの現代。

本の概要

核兵器と原子力発電、フロン、エイズ、沙漠化、人口爆発、南北問題…。人類のおかしてきた数々の「失策」。その行き着く先は?未来の現実を見透かす予見的思索エッセイ。

読んでみて思ったこと

最近は「環境保護」に意識が向きました。下記が理由。

  • モルディブ旅行をしつつ、この島が「100年後には沈むこと」を知りました。本当に素晴らしい土地、素晴らしい自然なのに、悲しいことです。
  • 地球温暖化でアフリカの農民が苦しんでいます。土壌が侵食され、収穫量が大幅に減少。貧困層が命をかけてヨーロッパ圏に違法移民をする事実。
  • 日本の311から、約10年が経過しました。しかし原発被害のあった地域には、未だに住むことができず…。永遠に土地が破壊されました。
  • タイのチェンマイは空気汚染が酷く、雨の振らない時期は、もはや住めません。中国がラオスの土地を侵食しており、大量の焼き畑をして、その空気がタイに流れています。

上記の思考を持ちつつ読みました。刺さった文章は下記。

テクノロジーが発達するにつれて人間が扱うエネルギーや物資の量は指数関数で増えてゆく。しかしそれをコントロールする人間の倫理の力は変わらない。従って、どこかでコントロールは失われ、壊滅的なものになる。

さらに、もう1つ引用します。

人類の全員が関与した失策に対して、一人の救世主や百人の天才、千人の政治家、十万人のエコロジー運動家の力が大きな変化をもたらせるはずがない。

本当にその通りだと思いました。

先日にインド旅行をしました。現地では環境破壊の嵐です。排気ガスなど。そしてドバイも同じです。海を埋め立て、インスタ映えするような土地を作っています。 僕が住むタイでも同じです。形だけエコを掲げていますが、プラスチックの嵐。

その一方で、ヨーロッパ圏はエコ意識が強いです。しかし1つ邪推をすると、ヨーロッパ圏では「地球温暖化 → アフリカで住めない地域が増える → 違法移民が増える → 自国の治安が悪化する」という状況です。

先日に「ノルウェーの首都であるオスロ」に行ったのですが、夜道は歩けません。男性でも怖いです。明らかに治安が悪く、夕方の公園では「大麻の匂い」が漂っていました。現地で大麻は違法です。北欧は治安が良いと思っていたのですが、地域で異なります。驚きました。

こんな思考を持ちつつも、僕は何もアイデアがありません。解決策も見えません。モルディブのような美しい土地が失われるのは、本当に悲しいことです。現状は何も見えませんが、こういった書籍から学びつつ、自分なりにも調べつつ、出来る行動をしていきたいと思いました。

» 楽しい終末 (著:池澤夏樹)

僕のハイライト

テレビというのは、家族が互いの顔を直接に見ないで済ませるために発明されたのだ)。

成長があたりまえとなっている社会というのは、言ってみればネズミ講のようなもので、最終的には帳尻が合わない日が来るのではないか。

現在では世界中のすべての人間に対して、一人あたり四トン分の爆発力の用意がある。百グラムの粉ミルクもない最貧国の乳児でも四トンのTNT火薬だけはもらえる。海外援助の小麦粉を運搬する手段はないのに、四トンの火薬の方はいつでも正確に送ってもらえる。

原子力発電を啓蒙するためのパンフレットの類には安全性と並んで経済性が大きく 謳ってある。しかし、ちょっと考えてみればこの二つの利点が相互に矛盾していることは明らかである。ほんの小さな異常でもすぐに原子炉を停めてしまうという方針で運営すれば、そこは絶対に安全な発電所ということになるだろう。しかしそれを実行していては年間の稼働率はひたすら低くなり、発電コストはいくらでも上がる。石炭火力で一キロワット時あたり十円程度、原子力で九円程度という数値のメリットを維持するためには、再循環ポンプが少々ガタついたくらいで原子炉を停めてしまうわけにはいかない、という彼らの論理の流れを外部にいるわれわれはついつい予想してしまうのだ。存在自体が矛盾を包含している。日本の原子力発電は稼働率が高くて優秀ですという自画自賛は、そのまま、何があっても停めませんにはならないか。

パワーは幾何級数として増えるのに、それをコントロールする能力の方は算術級数としてしか増加しない。パワーは科学に由来し、科学は先人の業績をそのまま継承できるシステムである。しかし、コントロールの方は結局は人間の性格に大きく依存するものだから、それをある目的に向けてよりふさわしいように変えてゆくことはできない。だからパワーとコントロールの差は大きくなるばかりだ。

マンハッタン計画を実行に移すに際して最も力があったのは、ナチスがこれを開発中という情報だった。亡命した多くのユダヤ系東欧系の学者がそう聞いてこの計画に参加したのだ(実際にはナチスの側の計画は遅々として進行していなかった)。ローズヴェルトを動かすべく最も説得力に富む手紙を書いたのはアインシュタインだが、彼の論法もまた核エネルギーを兵器に応用することが可能であること、ドイツがその研究をしているおそれがあることを連ねたものだった。

兵器の場合は最大限の効果が要求されるから設計も管理も大変だが、とりあえず爆発すればいいということならば、しかるべき量の核物質とひととおりの物理と化学の知識、それにアマチュア・レベルの工作技術があれば、通常の火薬何十トン分か何百トンというくらいの爆発力を持つ装置は作れる。

本当に終末が来るということが明らかになって、それが避けようもないことを納得した時、人はどうふるまうか。それを考えてみたいのだが、そもそも終末は考えうるものだろうか。

死ぬということは晩年の幸運によってそれ以前の不運の埋め合わせをする機会が失われることだから。

すべての生物は自己の保存と種族の維持と社会の繁栄という目的のために生きている。あらゆる努力がそちらに向けられるのは生命の基本原理として当然のことで、これは単純に言えば生物が自殺をしない、他者に勝ちをゆずらないということだ。競争があり、生き残った者が次の競争に向かい、敗者は退場して忘れられる。そういう不断の運動によってその時々の状況にもっともふさわしい者が残り、生命の連鎖が維持される。

死者の言葉を聞く方法をわれわれは持たないのだ。  具体的に見よう。こういう文章がある—— 「彼らは、誰が一太刀で体を真二つに斬れるかとか、誰が一撃のもとに首を斬り落とせるかとか、内臓を破裂させることができるかとか言って賭をした。彼らは母親から乳飲み子を奪い、その子の足をつかんで岩に頭を叩きつけたりした。また、ある者たちは冷酷な笑みを浮べて、幼子を背後から川へ突き落し、水中に落ちる音を聞いて、『さあ、泳いでみな』と叫んだ。彼らはまたそのほかの幼子を母親もろとも突き殺したりした。こうして、彼らはその場に居合わせた人たち全員にそのような酷い仕打ちを加えた」(ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』のうち、「エスパニョーラ島について」)  念のためもう一つ——「スペイン人たちはインディオたちを殺したり、火攻めにしたり、また、彼らに 獰猛 な犬をけしかけたりした。さらに、スペイン人たちはインディオたちを鉱山での採掘やそのほか数々の労働で酷使し、圧迫し、その哀れな罪のない人びとを全員絶滅させてしまった。両島には、かつて六十万人以上、いな、百万人を越える人が暮らしていたであろうが、今ではそれぞれ二百人ぐらいしか生き残っていない。そのほかの人びとはみな信仰の光も秘跡も授かることなく死んでしまったのである」(同じく「サン・ファン島とジャマイカ島について」)。

キリスト教徒たちがインディオたちに行った救済、あるいは、彼らに示した関心とは、男たちを鉱山へ送って耐え難い金採掘の労働に従事させることと、女たちを彼らが所有する農場に閉じ込め、頑強な男のするような仕事、つまり、土地の開墾や畑の耕作などに使役することであった」——これもラス・カサス)、

今の日本語の恐龍にあたる西欧語はディノサウルスだが、そのまま語源をたどればこれは「恐ろしいトカゲ」にすぎない。イギリスの解剖学者リチャード・オーウェンが一八四一年に命名した時にはまさに超大型のトカゲであったのだろうし、今でも欧米人の感覚で彼らはトカゲなのかもしれない。しかし、幸か不幸か日本語ではもともとトカゲであったはずの をあえて龍すなわち であるとして訳した。そして、このおそらくは意図的な意訳がわれわれの恐龍像をずっと豊かなものにしたのだ。龍に対する畏怖の念はとてもトカゲの比ではないだろう。だから、日本人であるわれわれはここで、恐龍論議のついでという形で、人類の歴史に延々とつきまとう龍という動物のイメージについてひとしきり考えることを許される。

人間にとって、人間の欲望にとって、地球はあまりに小さすぎた。無限に広かったのは世界ではなくわれわれの欲望の方だった。今はただ途方に暮れるというのが最も正しい姿勢なのかもしれない。

社会主義は人間が潜在的に持っている能力をうまく引き出せなかった、と。国民が単純労働を充分にしなかったのではなく、全体のシステムを改善し、みんなの生活が向上するように工夫し、新しいものを作り、新しい技術や材料や生産方法を考案し、明日への労力の投資を今日のうちにする。そういうことをしなかった。流通について言えば、円滑に送るよりも、停滞させ、溜め込み、横に流す動きの方が強かった。そういう動きは量の多寡によらず全体を混乱させる。百台に一台ずつでも信号を故意に無視する車があれば、交通は完全に麻痺する。そして、個人ならばともかく、一つの社会、億を単位に数えるほどの大きな人口を抱える国が全体として働かなかったのだとすれば、それは単なる怠惰の故ではなく、そういう制度のもとでは人は働かないものだからと考える他なくなる。  たまたま社会主義が低迷する時期に資本主義の方はおおいに発展した。これも資本主義の国に住む者が勤勉だったからではなく、この時期の資本主義が大量生産と大量消費、文化の大衆化や技術革新やマスコミの発達という爆発的な質の転換の時期にあたっていたからである。両陣営が共に貧しければ対立の時代はもっと長く続いたことだろう。高度に発達を遂げた資本主義は、欲望そのものを創生するという新しい段階に突入し、その成果を社会主義国に見せびらかした。マス・メディアが浸透して東側に住む人々の欲望を巧みに刺戟し、動揺を誘った。

「この石ころをパンに変えてみるがいい、そうすれば人類は感謝にみちた従順な羊の群れのように、お前のあとについて走りだすことだろう」という悪魔の誘惑をキリストは退けた。パンで服従を買うことを嫌って、人間に自由を与えようとした。しかし、人の本性ははたして自由に値するのだろうか。大審問官はキリストに向かってこう言う——「彼らはまた、自分たちが決して自由ではいられぬことを納得する。なぜなら、彼らは無力で、罪深く、取るに足らぬ存在で、反逆者だからだ。お前は彼らに天上のパンを約束した。だが、もう一度くりかえしておくが、かよわい、永遠に汚れた、永遠に卑しい人間種族の目から見て、天上のパンを地上のパンと比較できるだろうか? かりに天上のパンのために何千、何万の人間がお前のあとに従うとしても、天上のパンのために地上のパンを黙殺することのできない何百万、何百億という人間たちは、いったいどうなる? それとも、お前にとって大切なのは、わずかに何万人の偉大な力強い人間だけで、残りのかよわい、しかしお前を愛している何百万の、いや海岸の砂粒のように数知れない人間たちは、偉大な力強い人たちの材料として役立てばそれでいいと言うのか?」(以上=原卓也訳)

あるサイズの社会を運営するには、ある量の知的生産物が必要である。その社会が一定期間安定して存続するためには、知的生産物の供給が途絶えないことが必須の条件としよう。その供給の力は人間に備わっているか。一時的な不足は許すとして、長期に亘って足りないという事態は社会そのものの存続を危うくする。終末論の多くの問題をぼくはしばしばこの保存則というものに還元して考えてみる。資源や公害や核の場合には、必要量と供給量のバランスがとれない。その結果としての必需品不足の見込みがわれわれに終末を強く意識させる(例えば、原子力発電所で言えば、長期に亘って事故率を無視できるレベルに抑えることができないから、つまり電力供給量と危険率の収支が赤字になるから、これには頼れないということになる)。

資本主義は効率がいい。しかし、何の効率がいいかと言えば、資源を商品に変え、商品を廃物に変えるという一方通行の流れを速やかかつ円滑に行うという意味で効率がいいのである。

一つの社会が自分と等質の人々でのみ構成されているという認識は、たしかにその社会を住みやすくする。実際には社会は、世界は、多種多様な人々からなっているから、気心の知れた人だけの社会というのは錯覚であり、それにのみ頼る者はどこかで手痛いしっぺ返しをくう。日本は地理的歴史的条件が幸いして、あるいはただ無感覚なために、まだその痛みを体験していないが、ブラジルは早い段階で自分の中に他者を発見した。

ブラジルというのは実に世界そのものを何分の一かに縮小したような象徴的な意義をもつ土地である。実際ブラジルは、西欧風の近代都市からまったく未開発の熱帯雨林まで、形式的な民主主義から軍政や独裁的な地方権力まで、純血の白人から複雑な混血を経て黒人や純血のインディオまで、実に多くの要素を抱え込んで雑然と混乱した国家なのである。

人間の思想は地球の気候の一つの結果であり、五千年前に始まったものが今となってその力を最大限に発揮している。

人類の全員が関与した失策に対して、一人の救世主や百人の天才、千人の政治家、十万人のエコロジー運動家の力が大きな変化をもたらせるはずがない。人類全体が変わる日と人類全体が死滅する日の間で、どちらかの到来を待つのだとしたら、サハリンの川辺とまでは言わないが、なるべく静かな場所で静かに待ちたい。あまり欲張らず地道に暮らしたい。集団の中の善意の一人でいたい。この問題に対して、それ以上、いったい何が言えるだろうか。

テクノロジーが発達するにつれて人間が扱うエネルギーや物資の量は指数関数で増えてゆく。  しかしそれをコントロールする人間の倫理の力は変わらない。人間が昔より邪悪になったとは言わないがしかし善良になったとも言えない。  従って、どこかでコントロールは失われ、その結果はなにしろ厖大なエネルギーと物資を扱っているのだから、壊滅的なものになる(今やこの物資という言葉の中には通貨も含められるかもしれない)。

» 楽しい終末 (著:池澤夏樹)


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