神との対話2:今後の人生では「悟り」を目指したいと思った件

前作の「1巻」に続き、興味深く読みました。 こちらを読みつつ、下記のツイートをしました。

こういったツイートに「引く人」も多そうですが、気にせずに発信しました。これからも本音で語っていこうと思っています。

これからの人生では「悟り」も目指したいなと思っています。下記です。

世界で持続しうる唯一の平和は、内的な平和だ。内心の平和を見いだせば、あなたがたは外部世界のものを必要としなくなる。それは偉大なる自由だ。不安から自由になれる。「必要としない」と、怒りからも自由になれる。怒りとは、不安の表現だ。不安に思うことが何もなければ、怒ることもない。

もともと物欲はゼロですが、気付いたら「所有欲」を持ってしまっていました。下記を読んで思いました。

「もっと良い人生」は、物質を集めても実現できない。ほとんどのひとはそのことを知っているし、わかっていると口では言うが、あなたがたの人生はたいてい「物質」中心で、ほかの何よりも「物質」を大事にしている。あなたがたは物質を欲しがって、そのために働き、手に入れると決して離そうとしにない。

僕の場合は「お金を手に入れる=ここに執着する」という気持ちが生まれていました。しかし、お金は必要に応じて稼げばいいモノなので、あまり深く考えず、今ある状態に感謝していこうと思いました。

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僕のハイライト

あることが足りない、欲しいと思う行為が、わたしたちを対象から遠ざけるんでしたね。 そう、どうしてだか、覚えているかね? なぜなら、思考は創造的だからです。何かがない、何かが欲しいと望むということは、宇宙に向かってひとつの真実を宣言することであり、宇宙はそれを、わたしの現実にするからです。

何かを決意するときに考えるべきことはただひとつ、それが「わたし自身」を表現しているだろうか、ということだ。

感情に従う人生ではなくて、感情を理性という機械的なふるいにかける人生がいいと思うなら、そう生きなさい。理性による状況分析をもとに、決断しなさい。だが、そんな機械仕掛けの人生に喜びを求めたりしないことだ。まして、ほんとうの自分を賛美できるなんて、思わないことだ。いいかね。真の賛美とは非理性的なものだよ。

恥ずべきは、ヒトラーが何百万人ものユダヤ人を殺したことだけでなく、何百万人ものユダヤ人が殺されるまで、誰もヒトラーを止めなかったことだ。

あなたが行動すれば、彼らも行動する。まず、あなたから始まる。何もかも、すべてがあなたから始まるのだ。世界が変わってほしいと思うか? では、あなた自身の世界を変えなさい。

「あなたの」苦痛ではなく「わたしたちの」苦痛なら、「わたしの」喜びではなく「わたしたちの」喜びなら、人生経験のすべてがわたしたちのものなら、そのときこそ、完璧な命の経験になる。

動いているのはあなたであって、時間ではない。時間は動かない。ひとつの時があるだけだ。あるレベルでは、あなたはそのことを深く理解している。だから、人生で何かすばらしいこと、意義があることが起こると、まるで「時間が止まった」ようだ、と言う。時間は止まっている。そしてあなたも止まると、人生の決定的瞬間を経験する。

あなたがたの科学はすでに、このことを数学的に証明している。宇宙船に乗って猛スピードで遠くまで旅行したら、地球に戻って、出発する自分を見ることができるという定式がすでに書かれている。これを見ると、時間は動きではなく場であって、そのなかをあなたが動いていることがわかるだろう。

物理的な物質は、速度によって制限されている。でも、非物理的なもの──思考や魂──は、理論的には、信じがたい速度で移動することができるんですね。

あなたはつねに自由な意思をもち、全面的な選択が行える立場にいる。「未来」をのぞけるということは(あるいは、ひとに未来を見てもらうということは)、あなたが好ましいと思う人生を生きる能力を高めることであって、低下させることではない。 どうしてですか? よく、わかりませんが。 自分が見た未来の出来事や経験が気に入らなければ、それを選ばなければいい!選びなおしなさい! べつのことを選びなさい! 行動を変えて、望ましくない結果を避けなさい。 でも、すでに起こっていることを避けるなんて、できますか? あなたには、まだ起こってはいない! あなたは、起こっている出来事を認識しない時空にいる。あなたは、それが「起こった」ことを知らない。あなたは、未来を「覚えて」いないのだ(忘却、それがすべての時の秘密だ。このおかげで、人生という偉大なゲームを「プレイ」することが可能になる!

女性は風にそよぐ花のメロディを聞いている。見えないものの美を見ている。生命の潮の満ちひきを、力強さを感じている。走るときと休むときを知っている。笑うときと泣くときを、つかむときと離すときを知っている。

1日に10回、こうくり返すといい。───わたしはセックスが好きだ。それから、これも10回、くり返しなさい。───わたしは金が好きだ。いちばん、むずかしいことをやってみようか? 10回、こうくり返してごらん。───わたしは自分が好きだ!ほかにも好きなはずのことはたくさんあるよ。練習してごらん。───力──、栄光──、名声──、成功──、勝利。もっとあげてみるかい? こんなことが好きだと感じたら、罪悪感を感じるんじゃないかな。───ひとにへつらうこと───ひとよりすぐれていること───ひとより豊かなこと───どうすればいいかを知っていること───なぜかを知っていることもう、たくさんだと思うかね? だが、まだまだ! これを上まわる、究極の罪悪感のもとがあるぞ。さあ、こう感じたら、究極の罪悪感をもつだろう。───神を知っていること不思議だとは思わないかね? 生まれてからずっと、「自分がいちばん望んでいること」に罪悪感を感じさせられてきたんだよ。だが、わたしは言う。望むものをいくらでも愛しなさい、好きになりなさい。何かを愛すれば、自分に引き寄せられるのだから。そういうものはみな、生命の糧だ。それを愛するということは、人生を愛することだ。それを望むと宣言すれば、人生が与えてくれる良いものすべてを選びとる、と宣言することになる!

あなたはいままで、受けることよりも与えるほうが大切だ、と教えられてきた。だが、自分がもっていないものを、与えることができるだろうか。だからこそ、「自分の喜び」が大切なのだ。

自分を律するということは自己否定とはちがう。自分の行動を律するというのは、自分とは何者かを決定し、それにもとづいて何をし、何をしないかを選択することだ。

何を決意するにしても、いちばん大きな問題は、「愛していれば、どうするだろう?」と自問することだ。自分自身を愛しなさい、それから関係する全員を愛しなさい。

つねに自分を最優先するべきだ! それから、自分が何をしようとしているかを基準に──あるいは、どんな経験を求めているかを基準に──選択しなさい。

最高の自由を経験することによってのみ、最高の成長が達成される。

あなたがたの一部は──少数だが──肉体と精神の両方があることを理解している。そんなひとたちは、精神もていねいに扱う。だが、精神と精神的なことがらを大切にしているひとでさえ、精神の能力の一割も活用していない。精神にどれほど大きな能力があるかがわかったら、精神の驚異のお相伴にあずからないではいられないだろうに。肉体と精神のバランスをとっている者が少数だとしたら、肉体と精神と魂という三つの部分を生きている者はさらに少ない。だが、あなたがたは三つの部分からなっている。肉体以上の存在であり、精神をもった肉体以上の存在なのだよ。あなたは、魂を養っているだろうか? そもそも、魂の存在に気づいているだろうか? 魂を癒しているだろうか、傷つけているだろうか? 魂は成長しているだろうか、退化しているだろうか? 拡大しているだろうか、縮小しているだろうか?あなたの魂は、あなたの精神と同じように孤独だろうか? もっと、無視されているだろうか? あなたが前回、魂を感じたのは、いつのことだったろう? 喜びに泣いたのはいつだった? 詩を書いたのは? 音楽をつくったのは? 雨のなかで踊ったのは? パイを焼いたのは? 絵を描いたのは? 何かを修理したのは? 赤ん坊にキスしたのは? ネコを抱きあげてほおずりしたのは? 山登りをしたのは? 裸で泳いだのは? 夜明けに散歩したのは? ハーモニカを吹いたのは? 夜明けまで話しこんだのは? 何時間も海辺で、森のなかで、愛しあったのは? 自然とふれあったのは? 神を求めたのは? 黙って座り、自分という存在の最も深い部分にまで旅をしたのは、いつだった? 魂に、「やあ」とあいさつしたのは、いつだった?

歴史の本を見てごらん。あなたがたの歴史と称するものは、子供たちに特定の世界観を植えつけたがるひとによって書かれたものだ。

ほんとうにヒロシマに原爆を落とす必要があったと思うかね? 事実を知っていたたくさんのひとたちの報告を研究したアメリカの歴史家は、何と言っているか? 日本帝国は原爆投下以前に、戦争を終わらせたいとひそかにアメリカに打診していた。原爆を投下するという決断のどれくらいの部分が、真珠湾攻撃への復讐だったのか? 仮にヒロシマの原爆投下が必要だったとしても、それではなぜ、二度めの原爆投下が必要だったのだろう?

あなたがたの教育システムは、こうした問題について批判的な考え方を許さないという点、それが問題なのだ。

若者たちはあなたがたの暮らし方を破壊している。若者とはつねにそういうものだ。だから、あなたがたは彼らを抑えるのではなく、励まさなければいけない。熱帯雨林を破壊しているのは、若者ではない。彼らは熱帯雨林の破壊をやめさせようとしているのだ。破壊しないでくれと言っている。オゾン層を破壊しているのも、若者ではない。世界中で、ひどい労働条件で貧しい人びとを働かせて搾取しているのは、若者ではない。死ぬほどの税金をとって、その金を戦争や武器に使うのは若者ではない。弱者や恵まれない人たちの問題を無視し、すべての人びとを養ってあまりある地球に暮らしながら、毎日何百人もの人びとを餓死させているのは、若者ではない。彼らは、そういうことはやめてくれと言っている。

どうして、子供たちを競争が許され、むしろ奨励される学校へ入れ、「最高」で「いちばん多く」を学んだものに褒美を与えて「成績」を評価するのか? 自分自身のペースで進ませてやらないのか? そんなやり方から、子供たちは何を学ぶと思う?

ものではなく概念を教えなさい。つぎの三つの基本概念を中心にした、新しいカリキュラムを考えなさい。───認識──誠実──責任子供たちに幼いころから、この概念を教えなさい。カリキュラムの最後まで、この三つの筋を通しなさい。教育のモデルをこの三つにおきなさい。すべての指導を、この三つから始めなさい。

ウォルト・ケリーの漫画のキャラクター、ポゴのすばらしい台詞を覚えているかな──。「敵に会ったんだ。そうしたら、それがぼくたちなんだ」、あれを忘れないほうがいい。

学校のカリキュラムを根底から見なおしなさいと言っている。価値観にもとづいたカリキュラムだ。いまは、ほとんど事実にもとづいて教えている。

あなたがたは、そういうデータを「正しいこと」として教えている。データはありのまま、見せてやるべきなんだよ、データとしてね。

宝はいつも、答えではなくて、問いかけのなかにある。

問いかけはいつも同じだ。あなたの前にある過去のデータを見て、あなたは同意するか、反対するか? あなたはどう考えるか? いつも、鍵になるのはこの問いかけだ。つねに、これが焦点だよ。あなたはどう思うか? それが大切なのだ。

政治とはつまり、権力者が自分の利益は国民の利益だと納得させようとする方法だ。

もともと、政府には非常に限られた機能しかなかった。政府の目的とは要するに、「維持し、守ること」だった。誰かがそれに、「提供すること」をつけ加えた。政府が国民を守るだけでなく、何かを提供しはじめたとき、政府は社会を維持するというより、創り出すようになった。

あなたがたの法律は、人びとが社会をどうとらえているか、どんな社会にしたいかを反映しているのではなく、どこに権力があるかを反映している。

もし大麻が栽培されると、世界中の綿花栽培業者やナイロン、レーヨン生産者、それに木材生産者の半数がたちゆかなくなるからだよ。じつは、大麻は地球上でいちばん強くて丈夫で長もちがして、役に立つ材料のひとつだ。衣服用としてもこんなにすぐれた繊維はないし、ロープをつくれば丈夫だし、パルプ原料としても、栽培も収穫もじつに簡単だ。

電気自動車の大量生産や、手ごろな料金の行き届いた医療制度、各家庭での太陽熱を利用した暖房や発電がなかなか実現しないのも、同じ理由からだ。資本力や技術力だけなら、何年も前につくれたはずだ。それではなぜ、いまだにできないのか。そういうものが実現したら誰が損をするかを考えてみるといい。そこに答えが見つかるよ。

あなたがたは、浪費と退廃の社会に住んでいる。あなたがたの社会は、技術者の言う「計画された陳腐化」を中心に、すべてが組み立てられてきた。自動車のコストは三倍、耐久性は三分の一。衣服は10回着たら、ぼろぼろになる。食品には化学物質を添加して、店の棚に長く置いておけるようにし、それで人間の寿命がちぢまることになっても意に介さない。スポーツチームにはばかげた努力の代償として腹だたしいほどの金を支払って応援し、もちあげるが、教師や聖職者、致命的な病気の治療法を発見しようと闘っている研究者には、金を乞い求めさせておく。スーパーマーケットやレストラン、家庭では毎日、地球の全人口の半分を養えるほどの食べ物が捨てられている。こう言ったからって、決して責めているのではない。事実を指摘しただけだ。それに、アメリカだけではない。胸の悪くなるような態度は、世界中にひろがっている。

すべての紛争は、間違った欲望から生じる。世界中で持続しうる唯一の平和は、内的な平和だ。それぞれのひとが内心の平和を見いだしたとしよう。内心の平和を見いだせば、あなたがたは「なしでやっていく」ことができるようになる。つまり、あなたがたは外部世界のものを必要としなくなる。「必要としない」、それは偉大なる自由だ。まず、不安から自由になれる。自分にはもてないものがあるという不安だ。それに、特定のものがなければ幸せになれない、という不安だ。第二に、「必要としない」と、怒りからも自由になれる。怒りとは、不安の表現だ。不安に思うことが何もなければ、怒ることもない。欲しいものが得られなくても、あなたは怒らない。なぜなら、欲しいといっても、好みの問題であって、絶対に必要だというわけではないからだ。だから、あなたは得られないかもしれないという思いにつきものの不安を感じない。したがって、怒りもない。

あなたは、誰かが不親切でも怒りはしない。なぜなら、親切にされる必要性を感じないからだ。誰かに冷たくされても怒りはしない。なぜなら、愛される必要性を感じないから。誰かがあなたにひどいことをしたり、傷つけようとしたり、損害を与えようとしても、あなたは相手にべつのふるまいをさせる必要性を感じないし、自分が傷つけられはしないことを知っている。たとえ誰かがあなたの生命をとろうとしても、あなたは怒りはしない。なぜなら、あなたは死を恐れないから。恐れがなくなれば、ほかのすべてもなくなり、あなたは怒らなくなる。あなたは心のなかで直観的に、自分が創り出したものはすべて再び創り出せることを知っているし──もっと重要なことには──じつはそれがどうでもいいことも知っている。内心の平和を見いだしたとき、ひとであれ、場所であれ、ものごとであれ、条件であれ、環境であれ、状況であれ、そうしたことの有無では心の状態も自分という存在の体験も影響を受けなくなる。

最も大きな悲劇のさなかに、プロセスの栄光を見なさい。胸を撃ちぬかれて死ぬときですら、またギャングにレイプされているときですら。そんなことは不可能だと思うかもしれない。だが、神の意識のなかに入れば、それができる。

もうコントロールできない、というとき、あなたがたは自動的にそうなる。車が橋から墜落する事故にあったひとの話を聞いたことはないか? あるいは、銃をつきつけられたひとの話は? 溺れかけたひとの話は? 時の歩みが遅くなり、不思議な静けさに包まれて、恐怖をまったく感じなかった、というひとが多いはずだ。

生まれつき不利な立場にいる者は誰もいない。自分たちに「がんばれた」のだから、誰にでもできるはずだ。誰かがそうしないのは、「当人が悪い」のだと言います。 そういうのは思いあがった傲慢な考え方だ、そう思っているのだね。 そうです。でも、あなたはどう思われますか? わたしは、判断はしない。それは、単なる考え方だ。それについても、ほかのどんな考え方についても、重要なのはたったひとつの問いかけだけだ。そう考えることは、あなたの役に立つか? あなたが何者であるか、何者になりたいかという観点から見て、その考え方は役に立つか?世界を見まわして、そう問いかけるべきなのだ。この考え方は、自分たちの役に立つだろうか?

第一に、あなたが考え、言い、行うことはすべて、あなた自身についての決断の反映であり、あなたが何者であるかを言明すること、自分がどうありたいかを決定し、実行する行為だということを覚えておきなさい。

不利な立場にいるひとを見たとき問うべき最初の質問は、こうだ。わたしは、このこととの関連のなかで何者なのか、何者であることを選ぶのか? 言い換えれば、どんな状況でも最初に問うべき質問は、ここでわたしは何を望むか、ということだ。わかるかな? あなたの質問は、ここでわたしは何を望むか、であって、決して相手は何を望んでいるか、ではない。

すべての人間関係の目的は──個人も国家間の関係でも同じことだが──そういうこととは無関係だ。他のすべてのひとや場所、ものごととの神聖な関係の目的は、相手が何を望むか、何を必要とするかではなくて、あなたが成長し、ほんとうの自分になるためには、何を必要とし、何を望むのかを知ることだ。

どんなときに支援の手を差しのべると、相手の力を弱めることになるんでしょうか? 相手の成長をうながすどころか、じゃまになるのは、どんなときですか? あなたの助けが、自立ではなく「ひとをあてにする気持ち」を助長するときだ。相手が自立するのではなくあなたに依存しようとするのを、同情のつもりで許したときだ。それは同情ではなく強迫観念だ。あなたが、自分には力があると感じたいという強迫観念をもっている。その種の手助けとは、ほんとうは権力欲なのだ。そのちがいは非常に微妙で、自分でも権力欲だと気づかないことがある。相手を助けようとベストをつくしているのだと本気で思う……だが、ほんとうは自尊心を満たしているだけではないかと、つねに自分を振り返りなさい。相手に対する責任を引き受ければ引き受けるほど、あなたは相手に対して権力をもつことになる。もちろん、あなたは良い気分になるだろう。だが、そんな援助は、弱者をまどわす媚薬だ。

生きるだけのために苦労しなければならないのだろうか。すべてのひとにゆきわたるだけの、充分なものがある地球の上でだよ?それが、人類が直面している問題の核心だ。

何も欲しがるな。好みで選ぶのはいいが、必要としてはいけない。

誰かが思いがけなくあなたの人生にかかわってきたら、そのひとはどんな贈り物を受けとりにやってきたのだろうと考えなさい。

「もっと良い人生」は、物質を集めても実現できない。ほとんどのひとはそのことを知っているし、わかっていると口では言うが、あなたがたの人生は──それに人生を動かしている意思決定は──たいてい「物質」中心で、ほかの何よりも「物質」を大事にしている。あなたがたは物質を欲しがって、そのために働き、手に入れると決して離そうとしにない。

ひとには生きていく基本的な権利がある。たとえ、何もしなくても、生きる権利がある。何も貢献しなくても、生きる権利がある。尊厳をもって生きることは、ひとの基本的な権利である。わたしはあなたがたに、万人が人間らしく生きるのに充分な資源を与えている。あなたがたは分けあいさえすればいい。 でも、それじゃ、ひとはぶらぶらして、「福祉」にすがって、人生を浪費しませんか? それは、どうやって防ぐのですか? 第一に、何が人生の浪費かを判断するのは、あなたがたではない。七〇年間、何もせずに詩を考えていたあげく、何千人もの人びとの理解と洞察の扉を開くようなソネットを、たったひとつだけ生み出したとしたら、その人生は浪費だろうか? 噓をつき、だまし、何かをもくろみ、被害を与え、あやつり、他人を傷つけて人生を過ごした男が、その結果、ほんとうの自分を──たぶん、生涯をかけて思い出そうとしていた何かを──思い出して、ついに新しいレベルに成長したとしたらどうか? この人生は「浪費」だろうか? 他人の魂の旅を判定するのは、あなたの役割ではない。あなたは、自分が何者であるかを決めるべきであって、ほかの誰かが何者であるか、あるいは何者でないかを判定する必要はない。あなたは、ひとがぶらぶらして、「福祉」にすがって、人生を浪費するのはどうやって防ぐのか、とたずねた。防ぐ方法は何もない、というのが答えだよ。 だが、ほんとうにそれでうまくいくとお思いですか? 貢献をするひとたちが、しないひとたちを恨むようなことはありませんか? そう、恨むだろうね。そのひとたちが悟りを開いていなければ。しかし、悟りに達したひとたちは、貢献をしないひとたちに大きな憐れみを感じるだろうが、恨みはしない。 憐れみ? そう。なぜなら、貢献をするひとたちは、しないひとたちが大きなチャンスと最高の栄光を失っていることを知っているから。ほんとうの自分についての最高の考えを創造し、経験するという栄光だよ。それだけでも、何もせず、怠けることに対する罰としては──もし、罰が必要ならの話だが──充分だとわかっているから。ただし、罰は必要ない。

職場の喜びは、何をするかとは関係なく、何を目的としているかによって決まる。午前四時に起きて赤ちゃんのおむつをかえる母親なら、そのことをよく知っているよ。彼女は鼻歌まじりで赤ちゃんに話しかけるだろう。それを見て労働だなどと思う者は誰もいはしまい。どんな姿勢でとりくみ、どんな気持ちで、どんな目的でしているか、それによって活動が真の喜びになる。

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