神との対話 3:思い出すことの重要性を感じた一冊

最高のレベルの成長を語るのに、必ずしも最高のレベルの成長をとげている必要はない。ただ、真実であろうと心がけなさい。真摯であろうと努めなさい。過去に与えたと思ういろいろな「被害」を償いたいのなら、行動で示しなさい。できることをしなさい。そして、あとは忘れなさい。

人生、生命は未来にあるのであって、過去にはない。未来にこそ真実があるのであって、過去にはない。これまでしてきたことは、これからすることにくらべれば重要ではない。これまで犯してきた過ちは、これから創造するものにくらべれば何の意味もない。

3冊目を読み終えました。

本書では「思い出すことの重要性」が語られていますが、同意できると思いました。

僕はビジネスに熱中するあまり、お金を囚われ、そして生産性に囚われ、気付いたら人生から「色」を消していました。

最近は心を取り戻しつつあり、身近な友人に「最近は、久しぶりに音楽を聴くようになったよ」と話しました。音楽すら、聴いていませんでした。生産性を上げるためです。

すると、まさかの友人も「あ、それ分かるわ」と言いました。え、分かるんですかい。めちゃくちゃ驚いたのですが、その友人もメンタルを病みつつあり、しかし僕と同じようなタイミングで回復しつつありました。

話を戻すと、やはり「思い出すことは重要だな」と思いました。昔は色々な感性があり、そこから人生で悩み、考え、決断していました。

しかし、ある時期から人生の尺度が「お金や生産性」に入れ替わっており、この尺度も否定はしませんが、僕の中ではバランスが崩れていました。本書の1〜3部を読むことで、精神的にもリラックスでき、人生での幸福感を取り戻すことが出来ました。

新鮮な気持ちにて、僕が社会に対して出来ることを続けようと思います。何度考えても、僕の中の軸には「発信活動」があるので、これを軸にしつつ、主観的に考えて「やるべき事」を続けます。以上です。

» 神との対話3(著:ニール・ドナルド・ウォルシュ)

僕のハイライト

他人にどう思われるかを心配しているかぎり、あなたは他人のものだ。外からの承認を求める必要がなくなったときはじめて、あなたはあなた自身のものになる。

最高のレベルの成長を語るのに、必ずしも最高のレベルの成長をとげている必要はない。ただ、真実であろうと心がけなさい。真摯であろうと努めなさい。過去に与えたと思ういろいろな「被害」を償いたいのなら、行動で示しなさい。できることをしなさい。そして、あとは忘れなさい。

死んでも創造をやめない理由は、死にはしないからだ。死ぬことはできない。あなたがたは、生命そのものだ。生命が生命でなくなることはできない。したがって、死ぬことはない。では、臨終のときに何が起こるか……生きつづけるのだよ。だから、「死んだ」ひとの多くは、自分が死んだとは信じられない。死を経験しないから。それどころか、自分を非常にいきいきと感じる(ほんとうに、いきいきとしているからだがね)。そこで、混乱が生じる。「自己」には身体がぼろぼろになって、じっと横たわっているのが見えるかもしれない。だが、「自己」はあらゆる場所を飛びまわれる。文字どおり、空中から部屋を見下ろす経験もする。それから、あらゆる場所のあらゆるところに、いっぺんに存在する。どこかに視点を定めたいと考えると、たちまちそうなる。

だが、岩のなかの分子よりもっと小さな粒子の意識になると、猛スピードで「ここ」から「あそこ」へと移動している自分を経験する。岩の外から「何もかも一瞬のうちの出来事だよ」と声をかけられれば、噓だ、ほらを吹いちゃいけない、と思うでしょう。ところが、遠くから見れば、岩の各部分がばらばらで、しかも猛スピードで走りまわっているなんて、それこそ噓だと思う。遠くからは、近くでは見えないものが見える。つまり、すべては「ひとつ」で、すべての動きがじつは何も動かしてはいないことがわかる。

ひとは好きなように思えばいいですが。わたしにわかるのは、こういうことです。わたしは、ここで与えられ、三冊の対話で語られている情報を受けとる価値のある人間じゃない。この真実のメッセンジャーに、自分がふさわしいとは思えないんです。いま三冊めにとりかかっていますが、出版されないうちから、このわたし、さんざん過ちを重ね、自分勝手なことをしてきたわたしは、すばらしい真実の担い手になる価値なんかないことがわかっているんです。だが、それこそが、この三冊の最大のメッセージなのかもしれませんね。神は、どんな者からも身を隠さず、誰にでも、いちばん価値のない者にすら語りかけるというメッセージだ。わたしにすら話しかけるのであれば、神は真実を求めるすべての男、女、子供の心にまっすぐに話しかけるでしょう。だから、誰にでも希望はある。神に見捨てられるほどひどい人間は誰もいない。神が顔をそむけるほど許しがたい人間は誰もいない。

あなたは過去をもとに自分の価値を決めるが、わたしは未来をもとにあなたの価値を決める。

人生、生命は未来にあるのであって、過去にはない。未来にこそ真実があるのであって、過去にはない。これまでしてきたことは、これからすることにくらべれば重要ではない。これまで犯してきた過ちは、これから創造するものにくらべれば何の意味もない。

あなたは彼らの価値観を「間違っている」と言う。だが、あなたの価値観が「正しい」と言うのはいったい誰だろう? あなただけだ。あなたの価値観は、あなたが「正しい」と言うから正しい。それでも、あなたが自分の言葉を守れば、多少は筋が通るかもしれないが、あなた自身、何が「正しい」か、何が「間違っている」か、考え方をしじゅう変えている。個人でも社会でも同じことだ。

「思い出しつづける」方法はあるんですか? あるよ。あらゆる瞬間に知識を行動に表すことだ。自分の知っていることに従って行動し、幻想の世界が見せるものに惑わされないことだ。その幻想が、どれほどほんものらしく見えようとも。これが、すべての大いなる師〈マスター〉がしてきたこと、していることだ。彼らは見かけでは判断せず、自分の知識に従って行動する。思い出す方法は、もうひとつある。ひとに思い出させることだ。自分に望むことを、ひとにしてやることだ。

自分が引き起こした結果は、結局、自分自身が体験する。 それは、どういうことなんですか? 他人に経験させたことは、いつか、必ず自分が経験する、ということだよ。

「したい」と思うのはやめなさい。「欲しい」と思うことは、「したい、欲しい」という状態を宣言するだけのことだ。あなたはそこにとどまってしまう。欲しがっている自分のままで。 わかりました! いいですよ! わたしは「したい」とは思わない、それを選びます!

約束を守ってくれると期待する(少なくとも願う)権利もないとおっしゃるんですか? どうして、そんな権利が欲しい?ひとがあなたとの約束を破るたったひとつの理由は、もう約束を守りたくないからだよ。あるいは、もう守れないと感じるからだ。同じことだが。ひとがあなたとの約束を守りたくない、あるいは守れないと思っているのに、どうして守らせたいと思うのだね?ほんとうに、相手が守りたくない約束を守らせたいかな? 本人がしたくないことを強制するべきだと、ほんとうに思うか? どうして、本人の意思に反することを強制したがる? ええと、こういうことじゃないですか? 誰かが約束を守らなければわたしが傷つく、あるいはわたしの家族が傷つく。それを放っておくことになるからです。 すると、傷つくのを恐れて、ひとを傷つけるわけだ。 約束を守ってもらうのが、傷つけることになるとは思いませんが。 しかし、向こうは傷ついたと思うだろうね。そうでなければ、約束を守っていたはずだ。 すると、相手が約束を守って傷つくのを避けるために、自分の子供や家族が傷つくのを見ているべきなんですか? ひとに無理やり約束を守らせて、それで自分たちは傷つかずにすむと思うか?

あなたが他者に対してすることはすべて、自分に対してしている。なぜなら、あなたと他者は「ひとつ」だから。したがって、他者に対して何かをすれば、自分に対してもすることになる。他者に何かをしてやらなければ、自分にもしてやらないのだ。他者にとって良いことはあなたにとって良いことだし、他者にとってまずいことはあなたにとってまずいことだ。これが最も基本的な真実だ。だが、あなたがたはしじゅう、無視している。

悟りを開いた存在にとっては、ひとりを傷つけることはおおぜいを傷つけることで、少数の利益はおおぜいの利益だ。そうでなければ、結局は誰の利益にもならないことは明白だから。

「そうであるかのように、行動しなさい」すべてがひとつであるかのように、行動しなさい。明日から、そう行動してごらん。誰もがつらいときを過ごしている「自分」であるように。誰もが公平なチャンスを待っている「自分」であるように。誰もがつらい経験をしている「自分」であるように。試してごらん。明日から、試してごらん。すべてのひとを新しい目で見てごらん。それから「充分」であるかのように行動してごらん。「充分」な金、「充分」な愛、「充分」な時間があったら、あなたの行動はちがってこないか? もっとオープンに自由に平等に分かち合うのではないか? 

しなければならないことは、何もない。しなければならないことは、何もない。しなければならないことは、何もない。ただ、ありのままのわたしでいればいい。

» 神との対話3(著:ニール・ドナルド・ウォルシュ)


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