天路の旅人:ある意味で「日本一の旅人」を描いた一冊

本の概要

第二次大戦末期、敵国の中国大陸の奥深くまで「密偵」として潜入した若者・西川。敗戦後もラマ僧に扮したまま、幾度も死線をさまよいながらも、未知なる世界への歩みを止められなかった。その果てしない旅と人生の物語。

読んでみて思ったこと

感想を一言で書くと、すごい小説です。
スイマセン。陳腐すぎる言葉ですよね。でも本音です🙇‍♂️

それと同時に思ったことは、日本人の「愛国心」はどこへ行ったのか。

これほどまでに日本を守ろうとして、国のために戦っていた日本人が居たにも関わらず、しかし現代では、そういった気持ちを持つ人が少ないです。

読みつつも、色々と考えさせられる一冊でした。

» 天路の旅人(著:沢木耕太郎)

僕のハイライト

自分を低いところに置くことができるなら、どのようにしても生きていけるものです

この塾外教育こそが興亜義塾の最も特色ある教育だった。少数の回教班の塾生は、北京に行かせ、回教寺院などでイスラム世界の言葉と文化を学ばせるが、大部分の蒙古班の塾生は、ひとりずつ、広い蒙古の高原にぽつんと建つ 廟や包に預けられ、放置されるのだ。その地で、蒙古班の塾生は、自分の蒙古語が生の言葉としてはまったく通用しないことに衝撃を受け、さらには衛生観念のまったく異なる蒙古人社会に放り込まれて絶望する。体を洗うという習慣がないだけでなく、食器すらも水で洗わず、便は大地に垂れ流し、服を布団代わりに眠る。しかし、そこで生きていくしかない塾生は、少しずつ言葉を身につけ、生活に慣れていき、一年後に塾のトラックが呼び戻すために来てくれる頃には、鼻をかんだ汚い手で拭いただけの椀に入れて出された茶を平気で飲むことができるようになっているのだ。

どのような人種でも人間は同じなのだ。包頭時代、自分は漢人に対してもつとめて誠実に対応するようにしていた。すると、漢人も誠意をもって対応し返してくれた。大事なのは人種ではなく、この誠の心というものなのだ

やがてこの金がほとんど紙屑同然になることをそのときは知らなかった。半分くらいは銀貨にしておこうと思ったのだが、オーズルたちに、これから先の旅を考えると軽くて持ち運びに便利な紙幣の方がいいと意見され、それを受け入れてしまった。しかし、銀による裏打ちのある銀貨は価値が下がらなかったが、法幣と呼ばれる中華民国の紙幣は 雪 崩れるように価値を失っていくことになってしまった。  理由は二つあった。 ひとつは、偽札。一九四一年(昭和十六年)十二月の真珠湾攻撃によってアメリカと戦端を開き、さらにはイギリスを初めとする連合国にも宣戦を布告すると、日本軍は素早く香港を占領した。そして、そこにあった造幣所で法幣の原版を発見すると、日本軍は大量に偽札を製造して中国国内にばらまきはじめたのだ。 もうひとつは、乱発。日本との戦いのために膨大な戦費を賄わなければならなくなった中華民国政府が、法幣を大量に刷りはじめたのだ。その額はすさまじく、戦争前の法幣の総発行高が十四億四千元だったものが、終戦間際には実にその四百倍近い五千六百億元にまで膨らんでいた。  その結果、一枚の銀貨が百元の法幣で交換できていたものが、一年も経たないうちに一枚が三千五百元、さらには四千元ということになった。二十万元で二千枚の銀貨が買えたのに、わずか五十枚しか買えないという悲惨なことになったのだ。いや、その交換比率によってさえ、奥地に行くにつれ銀貨の売り渋りにあって手に入れられず、法幣はほとんど紙屑同然になってしまった

元からバロン廟にいるラマ僧たちは、その原因となった二十人の巡礼者ばかりでなく、西川たちのような外来の巡礼者すべてに対して、迷惑を掛けられるのはごめんだから出ていってくれという追放の動きをするようになった。すると、ラマタン活仏はこう言って、諫めたのだ。──もし巡礼のラマ僧たちを追放するなら、まず私を追放してからにしなさい。私も巡礼者なのだから。もちろん、ラマタン活仏は巡礼者ではなかった。しかし、このバロン廟の元祖となった活仏はチベットからの巡礼者だった。だから、その転生者たる自分もまた巡礼者のひとりということになる、と言ったのだ。ラマタン活仏のひとことで、バロン廟における巡礼者排斥の動きはぴたりと収まった。そのラマタン活仏が病に伏した。廟のラマ僧たち全員に 叩頭 が割り当てられ、合計十万回の叩頭が活仏のために捧げられることになった

夕方になると外に出ていた物乞いたちが次々と戻ってきた。そして、新参者の西川が凍傷で歩けないと知ると、自分たちこそ極限の貧しさの中にいるはずなのに、街で得ることのできた食糧の一部を分けてくれた。翌日も、翌々日も、朝、茶を飲んだり、ツァンパを食べたりすると、しばらくしてみな物乞いに出かけて行き、夕方、帰ってくると、誰かしら、歩けない西川のために食べ物を分けてくれた

インド人というのはチベット人と比べてもなおいっそう「喜捨」の精神に富んでいるらしく、物乞いが一日街を歩くと、二日分は生きられるというくらいの食糧を恵んでもらうことができた。それもあって、必要以上の物を手に入れることのできた物乞いたちが西川に恵んでくれたのた

もしかしたら、このように思うのは西川の心性の特徴的なところかもしれなかった。好意を寄せてくれた人に深く感謝し、全力で応じようとする。それも、言葉ではなく、身を粉にして極限まで働こうとする。そして、実際、西川は印刷所の下働きの職工として骨身を惜しまず働くようになった。いつも家に帰り着くのは午後八時を過ぎていたが、それから皆で食事をし、さらに次は自分の部屋でひとり語学の勉強をした。まず、インドの言葉をマスターしたかった。懸命に働き、懸命に勉強する日々が続いた。西川には、それはとても幸せな日々のように思えた

早朝、水で体を清め、毛皮の敷物を持って洞窟に入り、座禅を組む。そこでは、心を無にすることを命じられた。  座禅を組み、カンチェンジュンガの峰を見つめながら無念無想になろうとするが、気がつくと雑念に心が領されている。  何日も何日も同じことの繰り返しで、どうしても無の境地に達することができない。  ある日、小屋に戻って、ロブサンに悩みを打ち明けた。  すると、ロブサンは、仏像を作るときに用いる竹のヘラを西川の眼の前に突きつけて、言った。 「これを見てみろ」  突きつけられたヘラの先をじっと見ているうちに、ふっと何も考えていない自分に気がついた。 「ああ!」  西川が声を出すと、ロブサンは少し離れて、また言った。 「これを見てみろ」  だが、今度は、さっきのような無念無想にはなれなかった。 「駄目だ」  西川が落胆して言うと、ロブサンが言った。 「わかっただろう」  そう言われて、そこに、無念無想になるためのヒントが隠されていることに気がついた。  翌日から、西川は、洞窟に入るとき、石ころをひとつ持っていくことにした。それを座禅を組む足元に置くようにしたのだ。  それを見つめていると、心の中が空っぽになる。次に、その石をもう少し離れたところに置いてみる。すると、なかなか雑念を振り払えなくなる。しかし、それでもなお見つめていると、ふっと心が空っぽになっていく瞬間が訪れる。それが持続するようになって、さらに石を離す。  そのようにして徐々に石を置く距離を延ばしていくと、やがてそれは洞窟の入り口付近まで延び、さらには洞窟の向こうの山の峰が目標になり、最後はカンチェンジュンガ峰の頂になり、ついにはそこを離れて、空の任意の一点を見つめることで無心に近づくことができるようになった

駅に向かって歩きながら、西川はどうしてこんなことが続くのか不思議に思えてならなかった。単なる巡礼姿ではなく、でんでん太鼓に鈴を持って御詠歌をうたうというこの姿が珍しいのかもしれない。だが、それだけではないだろう。もしかしたら、異国人でありながらインドの言葉を使えるということが大きいのかもしれない。それによって意思の疎通がはかれる。しかし、インドの言葉が使える旅人の誰もがこのような歓待を常に受けられるわけではないはずだ。 ──いまの自分は、綺麗に欲がなくなっている。何をしたいとか、何を得たいとか、何を食べたいとかいったような欲望から解放されている。一日分の食糧があれば、どこで寝ようがかまわないと思っている。水の流れに漂っている一枚の葉と同じように、ただ眼の前の道を歩いている。その欲のなさが、人の好意を誘うのかもしれない

旅における駝夫の日々といい、シャンでの下男の日々といい、カリンポンでの物乞いたちとの日々といい、デプン寺における初年坊主の日々といい、新聞社での見習い職工の日々といい、この工事現場での苦力の日々といい、人から見れば、すべて最下層の生活と思われるかもしれない。いや、実際、経済的には最も底辺の生活だったろう。しかし、あらためて思い返せば、その日々のなんと自由だったことか。誰に強いられたわけでもなく、自分が選んだ生活なのだ。やめたければいつでもやめることができる。それだけでなく、その最も低いところに在る生活を受け入れることができれば、失うことを恐れたり、階段を踏みはずしたり、坂を転げ落ちたりするのを心配することもない。 なんと恵まれているのだろう、と西川は思った

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