【読書ログ】海辺のカフカ【世界観に引き込まれる小説】
世界観に引き込まれる小説でした🌞
ナカタさんは身体の力を抜き、頭のスイッチを切り、存在を一種の「通電状態」にした。彼にとってそれはきわめて自然な行為であり、子どもの頃からとくに考えもせず日常的にやっていることだった。ほどなく彼は意識の周辺の縁を、蝶と同じようにふらふらとさまよい始めた。縁の向こう側には暗い深淵が広がっていた。ときおり縁からはみ出して、その目もくらむ深淵の上を飛んだ。しかしナカタさんは、そこにある暗さや深さを恐れなかった。どうして恐れなくてはならないのだろう。その底の見えない無明の世界は、その重い沈黙と混沌は、昔からの懐かしい友だちであり、今では彼自身の一部でもあった。ナカタさんにはそれがよくわかっていた。その世界には字もないし、曜日もないし、おっかない知事さんもいないし、オペラもないし、BMWもない。はさみもないし、丈の高い帽子もない。でもそれと同時に、ウナギもないし、あんパンもない。そこにはすべてがある。しかしそこには部分はない。部分がないから、何かと何かを入れ替える必要もない。取り外したりつけ加えたりする必要もない。むずかしいことは考えず、すべての中に身を浸せばそれでいいのだ。それはナカタさんにとって何にも増してありがたいことだった。
この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。
森は昨日と同じように深くて暗い。そびえ立つ木々が、厚い壁となって僕のまわりをかこんでいる。暗い色あいのなにかが、まるでだまし絵の中の動物のように樹木のあいだに姿をひそめ、僕の行動を観察している。でも昨日感じた、あの肌が粟だつようなはげしい恐怖感はそこにはもうない。僕は自分のルールをつくり、それを注意深くまもっている。そうすれば道に迷わずにすむはずだ。たぶん。 ※メモ:マイルールが世界を照らす
昼すぎに暗雲がとつぜん頭上を覆う。空気が神秘的な色に染められていく。間を置かずはげしい雨が降りだし、小屋の屋根や窓ガラスが痛々しい悲鳴をあげる。僕はすぐに服を脱いで裸になり、その雨降りの中に出ていく。石鹼で髪を洗い、身体を洗う。すばらしい気分だ。僕は大声で意味のないことを叫んでみる。大きな硬い雨粒が小石のように全身を打つ。そのきびきびした痛みは宗教的な儀式の一部のようだ。それは僕の頰を打ち、瞼を打ち、胸を打ち、腹を打ち、ペニスを打ち、睾丸を打ち、背中を打ち、足を打ち、尻を打つ。目を開けていることもできない。その痛みにはまちがいなく親密なものが含まれている。この世界にあって、自分がかぎりなく公平に扱われているように感じる。僕はそのことを嬉しく思う。自分がとつぜん解放されたように感じる。僕は空に向かって両手を広げ、口を大きく開け、流れこんでくる水を飲む。
先を見すぎてもいけない。先を見すぎると、足もとがおろそかになり、人は往々にして転ぶ。かといって、足もとの細かいところだけを見ていてもいけない。よく前を見ていないと何かにぶつかることになる。だからね、少しだけ先を見ながら、手順にしたがってきちんとものごとを処理していく。こいつが肝要だ。何ごとによらず
僕らの人生にはもう後戻りができないというポイントがある。それからケースとしてはずっと少ないけれど、もうこれから先には進めないというポイントがある。そういうポイントが来たら、良いことであれ悪いことであれ、僕らはただ黙ってそれを受け入れるしかない。僕らはそんなふうに生きているんだ
うまくものを考えることができない。しかたない。あとでまた考えよう。
俺はべつに頭なんて良かねえよ。ただ俺には俺の考え方があるだけだ。だからみんなによくうっとうしがられる。あいつはすぐにややこしいことを言い出すってさ。自分の頭でものを考えようとすると、だいたい煙たがられるものなんだ
「世界は日々変化しているんだよ、ナカタさん。毎日時間が来ると夜が明ける。でもそこにあるのは昨日と同じ世界ではない。そこにいるのは昨日のナカタさんではない。わかるかい?」「はい」「関係性も変化する。誰が資本家で、誰がプロレタリアートか。どっちが右で、どっちが左か。情報革命、ストック・オプション、資産の流動化、職能の再編成、多国籍企業──何が悪で何が善か。ものごとの境界線がだんだん消滅してきているんだ。あんたが猫の言葉を理解できなくなったのは、そのせいもあるかもしれないね」
いいかい、田村カフカくん、君が今感じていることは、多くのギリシャ悲劇のモチーフになっていることでもあるんだ。人が運命を選ぶのではなく、運命が人を選ぶ。それがギリシャ悲劇の根本にある世界観だ。そしてその悲劇性は──アリストテレスが定義していることだけれど──皮肉なことに当事者の欠点によってというよりは、むしろ美点を梃子にしてもたらされる。僕の言っていることはわかるかい?人はその欠点によってではなく、その美質によってより大きな悲劇の中にひきずりこまれていく。ソフォクレスの『オイディプス王』が顕著な例だ。オイディプス王の場合、怠惰とか愚鈍さによってではなく、その勇敢さと正直さによってまさに彼の悲劇はもたらされる。そこに不可避的にアイロニーが生まれる」
怪奇なる世界というのは、つまりは我々自身の心の闇のことだ。19世紀にフロイトやユングが出てきて、僕らの深層意識に分析の光をあてる以前には、そのふたつの闇の相関性は人々にとっていちいち考えるまでもない自明の事実であり、メタファーですらなかった。いや、もっとさかのぼれば、それは相関性ですらなかった。エジソンが電灯を発明するまでは、世界の大部分は文字通り深い漆黒の闇に包まれていた。そしてその外なる物理的な闇と、内なる魂の闇は境界線なくひとつに混じり合い、まさに直結していたんだ
佐伯さんは『海辺のカフカ』の歌詞をこの部屋の中で書いたのだろう。レコードを何度も聴いているうちに、僕はだんだんそう確信するようになる。そして海辺のカフカとは、壁にかかった油絵の中に描かれている少年のことなのだ。僕は椅子に座り、昨夜彼女がそうしていたのと同じように机に頰杖をつき、同じ角度で壁のほうに視線を向ける。僕の視線の先には油絵がある。たぶんまちがいない。佐伯さんはこの部屋でこの絵を眺め、少年のことを想いながら『海辺のカフカ』の詩を書いたのだ。おそらくは夜の闇がもっとも深まった時刻に。 ※メモ:創作においては自分を取り巻く環境も受け手に伝染する。
芸術家とは、冗長性を回避する資格を持つ人々のことだ
神でも仏でもないから、人間の善悪を判断する必要もない。また善悪の基準に従って行動する必要もない、
誰もが恋をすることによって、自分自身の欠けた一部を探しているものだからさ。だから恋をしている相手について考えると、多少の差こそあれ、いつも哀しい気持ちになる。
ジャン・ジャック・ルソーは人類が柵をつくるようになったときに文明が生まれたと定義している。まさに慧眼というべきだね。そのとおり、すべての文明は柵で仕切られた不自由さの産物なんだ。
『下手の長考、休むに似たり』という言葉がある
でもこのCDの解説によれば、ベートーヴェンは耳が聞こえなかったんだ。ベートーヴェンはとても偉い作曲家で、若い頃はピアニストとしてもヨーロッパでいちばんと言われていた。演奏家としてもとても大きな名声を得ていたんだな。しかしある日、病気のせいで耳が聞こえなくなった。ほとんどぜんぜん聞こえなくなったんだ。作曲家が耳が聞こえなくなるってのは、大変なことだ。
なぜ誰かを深く愛するということが、その誰かを深く傷つけるというのと同じじゃなくちゃならないのかということがさ。つまりさ、もしそうだとしたら、誰かを深く愛するということにいったいどんな意味があるんだ?いったいどうしてそんなことが起こらなくちゃならないんだ?
「いろいろとご迷惑をおかけいたします」とナカタさんはぼんやりとした声で言った。「たしかに迷惑はかけられているような気がする」と青年は認めた。「でもな、これまでのいきさつをよく考えてみたら、俺っちが勝手におじさんについてきているんだ。言い換えれば、俺が自分から進んで迷惑を引き受けているようなものなんだ。誰に頼まれたわけでもない。趣味の雪かきみてえなもんだ。だからおじさんがいちいち気にすることはねえよ。気楽にしてなって」
記憶はここではそんなに重要な問題じゃない。記憶は私たちとはべつに、図書館が扱うことなの
サーフィンというのは、見かけよりもずっと奥の深いスポーツなんだ。俺たちはサーフィンをすることを通して、自然の力に逆らわないことを覚える。たとえそれがどんなに荒っぽいものであったとしてもだ
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