終わった人【まさか自分が”終わった人”に共感すると思わなかった件】
定年して”終わった人”を描いた本。一気読みしました。楽しすぎる。まさか自分が「定年した終わった人の感情」に「共感する」とは思いませんでした。
僕自身は20代でビジネスに大きくコミットして、現在は人生で困らない資産を作れました。それと同時に「燃え尽き感」も感じており、この小説を読むことで癒やされました。バーンアウト感のある方は、読んでみても良いと思います。
「壮さんの定年もそうだけど、どんな仕事でも若いヤツらが取ってかわる。俺は『生涯現役』ってあり得ないと思うし、それに向かって努力する気もまったくないね。あがくより、上手に枯れる方がずっとカッコいい」
それで生活はできないが、好きなことに関わり続ける生涯は、誇りであり喜びだと思ったという。 「ボクシング雑誌に書かせてもらったり、親しいジムで初心者を教えたり、会社に勤めながらやってたよ。息子が三月に大学を出て、俺はすぐ四月にやめた」
俺が「人生終わった」と思った翌年に、二宮はA級ライセンスに挑み、合格していた。
若い頃に秀才であろうとなかろうと、美人であろうとなかろうと、一流企業に勤務しようとしまいと、人間の着地点って大差ないのね……と。ならば、何のためにガリ勉し、あがき、上を目指したのか。もしも「最後は横一列」とわかっていたなら、果たしてそう生きたか。
俺には何の趣味もない。仕事が一番好きだった。ゴルフもつきあいでやったが、面白いと思ったことは一度もなく、今では行こうとも思わない。 特に親しい友達もいない。仕事が面白くて、友達は必要なかった。これほどヒマな今でも、特に欲しいとは思わない。
駅前へと歩きながら、思わずため息が出た。 俺はこういう日々をずっと、ずっと続けるのだろうか。めしを食って、筋トレして、寝るだけの生活が、動けなくなるまでずっと続くのか。
「田代、今日から『できるクラス』に行くように」 俺は、 咄嗟 に答えていた。 「いえ、今のクラスでいいです。勉強は自分でやりますから、『できないクラス』でも構いません」 担任は思わぬ反撃に、一瞬ひるんだ。間違いない。 俺はあの時、身につけた。「強気に出ると、人はひるむ」と。
「え……トシが。忙しいのによくそんな時間、あったな」 「忙しいったって、昔のようじゃないからさ。うまい地酒飲みに行くかってなもんで」 「忙しくないのか、仕事」 「いや、仕事はあるけどさ。でも俺だって五十五だよ。三十代、四十代のようではないってこと」
「人は死ぬまで、誇りを持って生きられる道を見つけるべきだと……あの時、骨身にしみた」
ビジネスとは『忙しい』という意味の英語busyに、nessをつけて名詞にしたものであるということです。ヨッチンには忙しさに翻弄されるなと、何よりも伝えたいと思います。
俺は「穏やかで楽しい余生」が楽しめないタチなのだ。 何よりも「余生」という言葉がおかしい。人に「余りの生」などあるわけがない。 八十であろうが九十であろうが、患っていようが、生きている限りは「生」であり、余りの生ではない。
男にとって、会社勤めと結婚は同じだ。会社では結果を出さない人間は意味がないとされ、追いやられる。家庭では年を取ると邪魔にされ、追いやられる。同じだ。
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