吉田松陰の「死生観」を学べる本【死の概念は、時代で変化する話】

この本の概要

吉田松陰が、獄舎で処刑される前日の夕刻まで、自身の思いを発信し続けた『留魂録』を現代訳し、解説。

読書レビュー

山口県に行ったときに吉田松陰の塾があり、吉田松陰に興味を持った。その後に本書を見つけ読んでみた。

まず幕末について思ったこと。幕末はペリー来航から江戸時代の終わりまでを指す。1603年〜1868年の260年間。今の時代からすると、1760年から続いたことの終了を指す。想像できますか?当時からすると、大波乱の時代だったと思う。

次に思ったこと。現代とは死の概念が異なる。幕末の活動家は、今とは死の概念が異なる。国のために死ぬことや、死に方を気にしている。現代は死ぬことを「全て悪」と考えるけど、時代によって死の価値観は変わる。吉田松陰は30歳で死んでるけど、魂は永遠に生き続けている。

自分はそこまで「崇高な生き方」は出来ないけど、多少なりとも本を読んで感じたこともある。なので、自分にできる活動を続けたい。

» 留魂録 吉田松陰の「死生観」

僕のハイライト

それにしても、何と知恵の浅い者ばかりか、と思います。たとえば、今日、正論を徹底的に主張し、それで役職を失うということになっても、それはそれで、いいではないですか。なぜなら、そうなったら、やがて今の藩政府の悪い官僚たちが失職したあと、“あの逆境のなかで、彼は立派な発言をした”という、誇るべき事績が残ることになるからです

今、江戸にいる久坂玄瑞、中谷正亮、高杉晋作などの友人たちも、私とは意見がちがいます。私と彼らのちがうところは、ただ一つ……。それは、私は、ひたすら忠義のために行動しようとしているのに、彼らは、“その行動を起こすことによって、どのような成果をあげられるのか”などと、そんなことばかり考えて、結局、何も行動しないところです

生きるということは一時の楽しみにすぎず、“高い理念にしたがった行動”のはてに死ぬということは、永遠の名誉です

今から私は、人が、やさしげにものを言ってくれば、やさしげに応えます。人が、はげしい顔つきでものを言ってくれば、目を閉じているだけです。大声で怒鳴ってくる人がいれば、黙っていようと思います。そういう人々は、どちらにしても同じような人々なので、憎む必要さえありません

今の世間には、「孔子は、『志のある士や、愛のある人は、わが身を犠牲にしても、愛を実現する』とおっしゃっている」とか、「孟子は、『命と義は、どちらも大切であるが、両者をかねることができない時は、命を捨てて、義をとらなければならない』とおっしゃっている」とか、そういうことを言い、書物をのせる台を叩きながら、大声を出して、偉そうに講義している儒学の先生たちがいます。その先生たちの言葉に、じつは中身は何もありません。“ただウルサイだけ”です。それが、“ただウルサイだけ”ということを知らないまま、「へぇー」と感心し、そんな学者たちの話を聞いて、一生をすごすような愚か者もいます。あなたも、その一人です

私は、すでに三十歳になります。稲にたとえれば、もう稲穂も出て、実も結んでいます。その実が、じつはカラばかりで中身のないものなのか……、あるいは、りっぱな中身がつまったものなのか……、それは、本人である私にはわかりません。けれども、もしも同志の人々のなかで、私のささやかな誠の心を“あわれ”と思う人がいて、その誠の心を“私が受け継ごう”と思ってくれたら、幸いです。それは、たとえば一粒のモミが、次の春の種モミになるようなものでしょう。もしも、そうなれば、私の人生は、カラばかりで中身のないものではなくて、春・夏・秋・冬を経て、りっぱに中身がつまった種モミのようなものであった、ということになります。同志のみなさん、どうか、そこのところを、よく考えてください

» 留魂録 吉田松陰の「死生観」

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